臨南寺の紹介
臨南寺は、福井県永平寺、神奈川県總持寺を両大本山とする曹洞宗の寺院。
寺伝によれば、江戸時代正保2年(1645年)約380年前、天草代官などを歴任した鈴木三郎九郎重成公が先祖の菩提を弔うために、開山萬安英種禅師(後に宇治興聖寺を中興)を請し創建した寺。
かつては、本堂、庫裡、土蔵、薬医門、禅堂、鎮守堂などを有した。現在は本堂を中心に檀信徒会館など時代に即した寺院となっている。
御開山 萬安英種禅師
萬安英種禅師は、美濃国(現在の岐阜県)岩村城の生まれ。
11歳で得度し、肥後大慈寺・吉祥寺・能登總持寺・起雲寺をへて丹波瑞巌寺を再興。
開基鈴木重成公に招かれ臨南寺を開山。
その後、道元禅師初開道場、宇治の興聖寺を中興。
11歳で得度し、肥後大慈寺・吉祥寺・能登總持寺・起雲寺をへて丹波瑞巌寺を再興。
開基鈴木重成公に招かれ臨南寺を開山。
その後、道元禅師初開道場、宇治の興聖寺を中興。
御開基 鈴木三郎九郎重成
鈴木三郎九郎重成は三河の則定村で生まれ慶長19年(1614)より徳川家康に仕え、大阪冬の陣・夏の陣、島原の乱等に出陣した勇猛果敢な三河武士であった。
行政官としての重成公は、寛永2年(1625)に信州伐木奉行、翌年に御納戸頭を務め、寛永6年には上方代官(堤奉行を兼任)して、寛永18年には天草代官として優れた手腕を発揮した。
(写真の重成像は、現在天草市所蔵)
行政官としての重成公は、寛永2年(1625)に信州伐木奉行、翌年に御納戸頭を務め、寛永6年には上方代官(堤奉行を兼任)して、寛永18年には天草代官として優れた手腕を発揮した。
(写真の重成像は、現在天草市所蔵)
曹洞宗の紹介
大本山 永平寺
開祖道元禅師により、寛元2年(1244年)に建立。
開基は、越前領主波多野義重公。
敷地は約10万坪、境内には山門、仏殿、法堂、庫院、僧堂、東司、浴司の七堂伽藍をはじめ70以上の建物がある。応安5年(1372年)出世道場となり、後円融天皇からから「日本曹洞第一道場」の勅額を賜り大本山となる。
開基は、越前領主波多野義重公。
敷地は約10万坪、境内には山門、仏殿、法堂、庫院、僧堂、東司、浴司の七堂伽藍をはじめ70以上の建物がある。応安5年(1372年)出世道場となり、後円融天皇からから「日本曹洞第一道場」の勅額を賜り大本山となる。
道元禅師(高祖承陽大師)
24歳で宋に渡り、如浄禅師の法を継ぐ。
28歳で帰国し34歳の時、京都府宇治市に曹洞宗初の僧堂である興聖寺を開く。
44歳の時、旧仏教勢力の弾圧により、波多野義重公の領地越前志比の庄に大仏寺(現在の永平寺)を開く。
28歳で帰国し34歳の時、京都府宇治市に曹洞宗初の僧堂である興聖寺を開く。
44歳の時、旧仏教勢力の弾圧により、波多野義重公の領地越前志比の庄に大仏寺(現在の永平寺)を開く。
大本山 總持寺
開祖瑩山禅師が能登櫛比の庄真言宗諸嶽寺の住職定賢律師より譲り受け、元亨元年(1321年)諸嶽山總持寺と改めた。
後醍醐天皇より「日本曹洞紫賜出世道場」の綸旨を賜り大本山となる。
明治31年の大火災により伽藍のほとんどを焼失した。
明治44年に現在地横浜市鶴見区に移転。境内は約15万坪。中には、千畳敷の大祖堂をはじめ30余の伽藍が並び、威容を誇っている。
能登の總持寺は「祖院」と称し、復興され現在に至っている。
後醍醐天皇より「日本曹洞紫賜出世道場」の綸旨を賜り大本山となる。
明治31年の大火災により伽藍のほとんどを焼失した。
明治44年に現在地横浜市鶴見区に移転。境内は約15万坪。中には、千畳敷の大祖堂をはじめ30余の伽藍が並び、威容を誇っている。
能登の總持寺は「祖院」と称し、復興され現在に至っている。
瑩山禅師(太祖常済大師)
道元禅師から数えて4番目の弟子。
京都や比叡山で学び、28歳で阿波(徳島)に城満寺を開く。
46歳の時、能登・羽咋に永光寺を開き、明峯祖哲・峨山紹碩をはじめ多くの弟子を育て、修行の規則となる「瑩山清規」を制定した。
57歳の時、能登の真言宗諸嶽寺を改め、諸嶽山總持寺とした。
京都や比叡山で学び、28歳で阿波(徳島)に城満寺を開く。
46歳の時、能登・羽咋に永光寺を開き、明峯祖哲・峨山紹碩をはじめ多くの弟子を育て、修行の規則となる「瑩山清規」を制定した。
57歳の時、能登の真言宗諸嶽寺を改め、諸嶽山總持寺とした。